社会の窓際から

暇を謳歌したい。

カサゴの文脈

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4月から働くことが決まり、一安心、さぁそれまでどうやって過ごそうかしらん、と意気込んだのはいいものの、実際はどのように日々を過ごしているのかというと、ネット、釣り、読書、畑、ガンダム鑑賞、ランニング、飲酒といった平々凡々な有様で、んじゃあ、他人とは一線を画した時間の過ごし方をしないといけないのかというと決してそんなことはないのだけれど、ひとまず退屈はしていないという意味で多少は奴隷階級からの脱却の兆しが見えてきたでげす。

 

最近一番面白いのは釣りで、先日の三連休、というのは世間的な「連休」という意味なのだけれど、一昨年の4月から連休を頂いている無職の身からすればただの三日間ということになるが、とりあえずその三日間は全て釣りに費やした。

 

ずっと同じ釣り場で、ひたすらにカサゴを狙い続けた。

 

それなりに釣果はあったものの、どれも小振りだったので、食べてもいいサイズの3匹を除いて全てリリースした。食べごろの3匹は味噌汁にして、美味しく頂いた。ものすんげぇうまかった。

 

人間の味覚というのは極めて曖昧なもので、食べるに至る文脈に味が左右される。

 

これはどういうことかというと、人が「うまい」と感じるためにはそれなりの「流れ」が必要だということで、それなりに「流れ」を作ることができれば大抵のものは「うまい」と思えてしまう、ということなのです。

 

例えば、おいどんがカサゴを釣った場所は平凡な波止場で、そこで獲れるカサゴも平凡なもので、仮にそこで釣れたカサゴを友人からもらって味噌汁にして食した場合、ものすんげぇうめぇぜ、とはならなかったと思う。うまっ、くらいだと思う。同じ波止場で獲れた同じ品質のカサゴなのに、何故におれっちはものすんげぇうめぇぜ、と思ったかというと、自分で釣って、下ごしらえをして、調理したという、ある種の思い入れ、広義でいうところのいい感じの「文脈」、「流れ」があるからなのです。

 

僕は鶏の唐揚げが好きなのだけれど、同じ唐揚げでも、プールで泳いでいい感じに疲れた時に食べる唐揚げと、大切な友人が自殺して茫然自失になっている時に食べる唐揚げではおいしさは全然違うよねー、というのは想像に難くないと思う。

 

人の味覚なんつうものは所詮はその程度。

 

何かを美味しく食べたければ、素材や調理法も大事だが、食べるまでの文脈の大切さも忘れてはいかんぜよ。

 

平凡な素材と平凡な調理法をもって出来上がった料理を、最高に充実した文脈に則って食べると、ジーザス!と喚いてしまうほどのうまさになり得るが、最高の素材と最高の調理法をもってして出来上がった料理でも、食べるまでの文脈が悲劇的であれば、例えば異性愛者と思っていた普段はおとなしい親友に突如として強引にアナルファックされた後に最高級料理を口にした場合、何かを味わうどころではないですよね。

 

というような屁理屈をどうして垂れているのかというと、

ゴミのような魚でも自分で釣って、食べたらおいしいよ。

そういった意味でも釣りっておもろいよ。

ということを言いたかったんです。僕は。

 

P.S.

シーカヤック欲しい。