社会の窓際から

暇を謳歌したい。

暗中模索

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一人旅を存分にやり切り、祖母の介護・看病が終わり、もうやることやったし、さぁこれから求職活動でもしようかしらん、と意気込んではみたものの、さほどやる気が起こらない。

 

なぜやる気が起こらないのかというと、就職する目的が「生存のため」や「自己実現のため」といった切実なものではなく、いわゆる「ファッション=世間体」や「暇潰し」程度だからで、よくよく考えれば、現時点で衣食住が十分に確保されていて、娯楽もそれなりにあり、貯金もある程度ある状況で、わざわざ出勤準備から帰宅までの一日12時間×週5日間を拘束される必要というか、意味を見出すのが容易ではないからなのです。

 

それと同程度に考えられる理由として、今まで好き勝手やって来た自分にとって、求職活動はこれから難航すると思われ、そのような状況に対する茫漠とした不安や徒労感が求職活動へのやる気を減退させているのも事実なのであーる。

 

んじゃあ、職になんて就かず、一生ぶらぶらしていればええじゃないか、ええじゃないか、と百姓一揆でも起こしそうな勢いで言ってくる人がいるかもしれないが、そういう人はこの経済成長至上主義の世の中で気楽に無職を続けることの困難さを理解していない。

 

これはかつて何かの本で読んだことなのだけれど、江戸時代の頃は宿の宿泊客はチェックインする際に職業欄を記入しなければならなかったらしく、町民たちはそこに「無職」が連なっていると、お、今日は上客ばかりでやんすね、ご主人、てやんでい、といった具合に無職にある程度の社会的地位を認めていたのだという。

 

それが今日に至っては、持てる全てを換金し、その換金率で人の価値を悉く図るという拝金主義が蔓延り、それに伴い、持てる時間も最大限換金すべし、つまりは苦労最高じゃん、労働最高じゃん、という風潮が圧倒的に強くなり、そういった労働教のドグマにソウルファックされ、思考が止まり、真夏に平気で背広を着用できる程の無感覚に陥ったゾンビたちの徘徊する世の中において、「働いている」という肩書があるだけで無職特有のあの心労が軽減されるのもまた事実なのです。

 

 

理想は「長時間労働特化型納税奴隷アンドロイドではない働き方」で、巷で言うところの「ダウンシフタ―」なのだけれど、現在応募している企業のことを鑑みると、仮に受かった場合、ダウンシフタ―とは程遠い働き方になるのは必須で、ということはやはり僕は無意識的にはカルト教団労働教のドグマから抜け出せていないということなのだろう。

 

とりあえず暗中模索。

 

発狂しない程度に求職活動を続けていこうかしらん。

 

P.S.

今日の一曲。