社会の窓際から

暇を謳歌したい。

NHKにようこそ!

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 無職で暇を持て余しているおれは膨大な自由時間を利用して祖母の介護を行っていて、余程の理由がない限り、昼間外出することはないのだけれど、たまに外に出なければならなくなった時は気が進まないというか、何か嫌だなー、と思う。

 

 それはなぜかと考えてみると、単純に人目を気にして、近所のカルト教団労働教の奥様方に「あのぼんくら野郎、平日の昼間っからカジュアルウエア着て何様のつもりかしらん。Leeのジーパンなんか穿いちゃって。仕事していないのかしらん」と馬鹿にされるのではないかという虚栄心に基づく一抹の恐怖ががらんどうの脳髄をかすめるからで、これはどういうことかというと、自分自身がカルト教団労働教から完全に脱しっきっていないということを意味する。

 

 つまり、カルト教団労働教の布教活動により我が脳髄には「てめぇのような年齢層の男は、この時間帯は本来労働に従事してへんとあかへんど」というドグマが髄の髄まで埋め込まれていて、平日の昼間に意気揚々と外出しようとすると、ドグマホルモンが分泌され、沈鬱な気分になり、まいったなー、となる。そして、土日祝日、あるいは平日の日暮れ時に外出するとなると、労働から解放された幾千もの長時間労働特化型納税奴隷アンドロイドたちにうまく紛れ込めるから安心するのだろうか、ドグマホルモンの分泌はほとんどない。

 

 おれの場合、ドグマホルモンによってまいったなーとなったとしても、虚栄心に基づく恐怖に「くだらねぇぜ、バーロー」とコナン風に唾を吐き捨て、結局はLeeのジーパンを穿いて外出することになるのだけれど、この虚栄心に基づく恐怖が激烈に強大で、それを振り払うことに破格の困難を覚える人は家から出ることができなくなり、引きこもりになってしまうのではなかろうか、という浅薄な推論は自称専門家に任せるとして、カルト教団労働教のドグマをアッパラパーな脳髄を使ってもう少し分析してみると、「一人前の人間たるものは、最低『一日8時間×週5日間』は労働に費やさなければならない」というドグマの一端が見えてくる。

 

 このドグマは非常に厄介で、このドグマのせいで無職のおいどんはダメだ、パートタイマーのおいどんはダメだ、と不必要に自分を責めて苦しんでいる人も少なくないのではないかしらん。

 

 まず大前提として人間は一人一人異なる。

 故に一人一人必要なものもそれぞれ異なる。

 故に一人一人生きていくために必要となる金額もそれぞれ異なる。

 一人一人持てる能力も異なるのだから、生きていくために必要な労働時間も異なる。

 よって、各々の必要を満たし、精神や肉体がこてんぱんに破壊されない限り、労働パターンはどうであってもよく、ゼロ時間労働であろうとフリーランスで働いていようとパートタイムで働いていようとフルタイムで働いていようと至って正常なのだけれど、「一日8時間×週5日間」という根強いフルタイム信仰のせいで本来的に正常であるパートタイムの人の中にはどことなく自分を肯定できずに、何か嫌だなー、と思っている人や、体裁を整えるためにファッションとして自分に必要な労働時間以上に働き、まいったなー、と思っている人もいるのではないかしらん。

 

 この自称先進国日本において(特に男の)現役世代が「今まで週5日働いていましたが、もっとお金が欲しいので週6日働くでげす!」と言ったとすると、「おお、頑張るねぇー、偉いねー」と受け入れられやすいし、居づらさもないが、「今まで週5日働いていましたが、もっと時間が欲しいので週3日働くでげす!」と言った場合、「え? パートってこと? そんな甘い考えで自分大丈夫なん? え? え? え?」と嘲笑され、居づらくなる。というのは想像に難くないだろう。

 

 拝金主義に基づく経済成長至上主義が覆い尽くすこの国の圧倒的多数の人間は、自分が充実した生活を送るには何がどのくらい必要で、そのためには月にあるいは年にどのくらいの額の金が必要で、その金額を稼ぐためにはどのくらいの時間働く必要があるのかしらん、つーか自分が必要としているものは本当に必要なものなのかしらん、ジャパネットに踊りに踊らされて埋め込まれた幻想的な欲望なのではないかしらん、仮にそれが本当に必要なものだったとしたら、それは本当に金で買わないと手に入らないものなのかしらん、みたいな感じのニュアンス的なことは全く考えず、労働時間を減らすよりもむしろ持てる時間を可能な限り換金することだけを考え、人間たるもの朝から晩まで働くべし、そうでない人間は欠陥人間と見なすべし、という価値観にソウルファックされている。

 

 ここで滑稽なのは、自分と向き合うことを怠り、「なぜ1日8時間×週5日間労働なのか」という疑問を抱くことなく盲目的に朝から晩まで働いてへとへとになっている人間がちゃんとしているとみなされ、そういった人間がおれはちゃんとしているぞという矜持を抱いている一方で、達磨のごとくに己と向き合い、自分に必要な分だけ働いて、あとは気ままに過ごそうかしらん、と自律的な日々を送っている人間、あるいは送ろうとしている人間がどことない居心地の悪さや後ろめたさを感じているという点で、それほどまでに我々はフルタイム労働に対してカルト的なのである。

 

 んじゃあ、どうすればそのカルト信仰から完全に抜け出すことができるのか?

 

 それはわからへん。

 

 わからないから平日の昼間はなるべく外出したくないなーと思っているのであーる。

 

 むしろ、その信仰はこの国の空気のようなものなのだから、もう抜け出すことはできないのかもしれない。

 

 まぁ、ええじゃないか、ええじゃないか、と、てやんでい精神で雑念を振り払い、バートランド・ラッセルの『怠惰への賛歌』という本を手に取って読み始めたところ、このフルタイム信仰というのか、労働信仰というのか、とにかくカルト教団労働教が信奉する「勤労の義務」の起源は暇人に由来する、みたいな感じのニュアンス的なことが書かれていて、おもろー、となった。

 

 ざっとまとめると、かつて地主を始めとする怠惰を愛する権力者たちは力ずくで農民たちに余剰物資を生産させて、それを無理矢理手離すように仕向けていたのだけれど、「何かさー、いちいち直接的に強制するのもだるいよなー、ぶっちゃけさー」ということで、生産者の脳髄にある種の道徳を埋め込むことにした。ということらしい。

 

 その道徳というのが「勤労の義務」で、その義務に脳髄をカルト的に乗っ取られた人間は、「勤労の一部が、何もしないでいる他の人々の生活を支えることになるのだけれど、彼らとしては、精いっぱいに働くことが義務であると思」い、働いていない状態を恐れ、何の疑念も抱くことなく朝から晩まで働いてくれるので、搾取するために「必要とする強制の量は減り、統制に要する費用も少なくなった」というわけで、「義務の観念は、権力の保持者が、他の人々に自分たちのためにというより、その主人の利益に仕えるために生きていくようにしむける手段」であり、つまるところ「勤労の道徳は奴隷の道徳」である。ということらしい。

 

 特権階級が余暇を得るには過剰に働いてくれる人間が必要で、時の権力者たちは過労を道徳に仕立て上げることによって人民をガチガチに働かせてきた。そして、奴隷階級を慰め、奴隷的道徳を維持するために、地主や宗教家や軍人といった非生産階級こそが率先して労働の尊厳を説いてきた。ということらしい。

 

 ということは、道徳的な理由で過労を強制してくる人間や、道徳的な理由で過労に励んでいる人間は奴隷で間違いなく、さらにただただ働いていないから、フルタイムではないから、という理由で苦しんでいる人間も、上記のような道徳を埋め込まれているからこそある種の罪悪感を感じて苦しんでいるわけだから、奴隷ということになる。ということはおれも奴隷ということになる。

 

 奴隷的価値観から抜け出し、有閑階級つまりは真の暇人になるにはどうすればいいのか。それはまぁ、わからないが、真の暇人になるために種々様々な試行錯誤や研究を行うのは面白いと思う。よって、ここに真の暇人道を開拓するための研究機関として、NHKすなわち日本暇人協会なるものを立ち上げたいと思う。と思ったのだけれど、自称先進国日本には日本暇人協会なるものがすでに存在していたので、NHKすなわち日本暇人研究会を立ち上げることにした。

 

 以上です。

 

P.S.

ダイコンの芽が出ない。