社会の窓際から

暇を謳歌したい。

退屈でもええじゃないか

 奴隷階級の人間というのは自分の時間を充実させる能力が欠落しているため余暇に退屈し、たとえ大金を擁していたとしても退屈凌ぎのために労働に従事しなければならない宿命にあるのだけれど、労働も労働で大して面白いものでもなく、むしろ不平不満の種になっており、働かないのも地獄、働くのも地獄というどん詰まりのカルマを背負っている人間のことである、とかくいうおれも奴隷階級の人間である、よって祖母の介護が落ち着き次第、来たる退屈地獄に抗うべく奴隷労働に従事するつもりである、みたいなことは過去の記事にも書いてきたのだけれど、幸いなことに最近退屈することがなくなってきた。というより、退屈でも別にええじゃないか、ええじゃないか、と思えるようになってきた。

 

 今日において、我々属国民の精神構造は「暇していてはいけない」「忙しくなければいけない」「何かをやっていなければいけない」というような予定がないこと、時間を持て余していることをどことなく恐れる構造になっているように思える。Dウイルス感染者が忙しいこと、帰宅時間が遅いこと、寝ていないことを誇らしげに語るのもそのせいであろう。しかし、よくよく考えれば、時間に余裕があることに越したことはないし、予定がないことに越したことはない。んじゃあ、その有り余る時間を使って、予定のない時間を使って何やっとんじゃい、と聞かれると、特に何もやっていない、という答えになってしまうのだけれど、特に何もやっていなくても別にいいのではないかと思う。というか、そもそも「何もやっていない」ということは不可能で、厳密に言うと人間は常に何かをやっている状態にあり、「何もやっていない」というのはその時の自分の状態をうまく言葉で表現できない、あるいは世間的な枠組みに合致する言葉が見つからない、みたいな感じのニュアンス的なことなのではないだろうか。

 

 そして、われわれ人間は常に何かをしている状態にありながら「今日は何もしなかったなぁー」と思える日と「今日は何かしたなぁー」と実感できる日があるのだけれど、その違いは何なのかしらん。何をすると「何もしなかったぁー」と思い、何をすると「何かしたなー」と思えることができるのかしらん。

 

P.S.

今日の一曲