社会の窓際から

暇を謳歌したい。

暇人と仏

 暇人は退屈凌ぎに『ブッダの真理のことば・感興のことば』を手に取った。

 

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 仏曰く、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。」(ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)より)

 

 何事も己の精神次第ってことか。

 

 確かにそうかもしれない。

 

 例えば金だ。

 

 拝金主義に基づく経済成長至上主義社会に生きる僕たちは、漠然と金持ちになることを志す。しかし、多くの者は「金持ち」の定義を持ち合わせていない。

 

 「闇雲に富を追い駆けよ」と奴隷洗脳を受けている僕たちは、しばし立ち止まって以下の問いを立ててみるべきだ。

 

 どのような状態を金持ちというのか?

 資産をいくら分持っていれば「金持ち」なのか?

 どういったものを持っていれば「金持ち」なのか?

 もしくは、そのようなものとは全く異なる基準があるのか?

 

 思考の停止した僕たちにとっては難題ではあるが、ブッダ先生の「ものごとは心にもとづく」という言葉は大きなヒントになる。

 

 つまり、金の価値は数字の問題ではなく、己の心、厳密に言えば欲望の大きさによる、ということだ。

 

 例えば、一月10万円で何不自由なく生活できる精神の持ち主にとって、10万円以上の金額が確保できている限り、生活費は十二分に満たされていると実感できるので、もうその時点で金持ちということになる。

 

 同様に、一月100万円で何不自由なく生活できる精神の持ち主にとって、一月100万円以上の金額が確保できている限り、生活費は十二分に満たされていると実感できるので、もうその時点で金持ちということになる。

 

 そして、いくら金があっても常に何かしらの不自由を感じるような精神の持ち主は、どんなに金を持っていても、生活費が十二分に満たされていると実感することができないので、金持ちではないということになる。

 

  何事も己の精神次第。

 

 自分は一月にいくらあれば何不自由なく暮らしていけるのか?

 

 金持ちになりたければ、まずはその質問から始めなければならない。

 

 P.S.

 字上手くなりたい